ひぐらしのなく頃に 神落し編
2006/12/03_142557入江1
ほぼ出来上がった『東京』への追加報告書の作成を中断し、ペンを置く。
私は立ち上がると大きく伸びをする。そのまま研究室を出て──セキュリティゲートを潜り──階段を登り──診療所に出る。
外はすっかり暗くなっている。月も既に沈んだようだ。少し昼の熱気が残る闇夜のなか、無数の星々が煌いている。
富竹さんの持って来た『東京』の指示は、妥協点としては中々のものだった。3年以内に研究を廃棄する方針自体の変更はなかった。しかし、予算の上積みとスタッフの追加があったのは望外の喜びだ。特にスタッフの追加は大きい。新スタッフを活用すれば、研究効率を大幅に向上することができる。新スタッフを診療所運営に回し、現スタッフを『雛見沢症候群』研究に注力させるてもいいし、現スタッフと新スタッフをペアで回して習熟度を上げるというのも良い。人選も私の権限で行えるのも好ましい。富竹さんの用意する候補者の質にもよるが……。『東京』の指示で、“診療所”という表の顔を疑われないようにスタッフの人数を制限していた『入江機関』としては、一番ありがたい条件だといえる。
治療薬完成と雛見沢住民の治療に向けた計画も既にある。それ以外のことも……見通しが立っている。ほぼ予定通り。私の研究は過去に無いぐらい順調に進んでいる。
診療所の中をぶらりと歩く。独身の夜勤組を除いて、多くのスタッフはすでに帰宅させている。
『東京』への報告を作成するため、しばらくの間スタッフの超過勤務が続いていた。ちょうどいい骨休めだ。報告作業が一段落ついた段階で、みんなを診療所から追い出して家路につかせた。──夜勤組も居眠りしているようだが、まあ、大丈夫だろう。そのままにしておく。
それに、理由はわからないが山狗の常駐警備も今日は無し。……まあ、この平和な雛見沢で何か起きるとは思えないから、これも大丈夫だろう。
この診療所の中で動いているのは私一人。こんなことは創立以来初めてのことだと思う。
診療所の待合室に出る。待合室にあるカップコーヒーの自動販売機に小銭を入れると、あえてホットのボタンを押す。ミルクは濃い目、砂糖は多め。カップを取り出すとほんの少しだけ含む。口の中に広がる甘い味わい。
物音ひとつない沈黙の世界。私は暗い部屋の片隅にある椅子に腰掛けると、手にするコーヒーをもう一口含む。
こんな闇のなかに身を沈めていると、つい考えてしまうことがある。
それは、晩年の父と、母のこと。
母は「人が変わってしまった」と言っていた。あの寡黙で優しかった父は、愛する母にさえ手をあげる乱暴者となった。多くの人が驚いた性格の豹変。私は、その原因は脳の損傷にあったのだと信じている。
父は望んで粗暴者になったのではなく、脳の病に冒されて正気を失ってしまったのだ。父は望んで暴力を振るったのではないのだ。父もまた、病の被害者でしかないのだ。そのことを皆に知ってもらいたかった。
しかし、……母は認めなかった。母は父を最期まで許さなかった。……私は、ついに母の心を動かすことはできなかった。父は粗暴者として死に、母は父を怨みながら死んでいった。私には、それがとても悲しかった。
あれから長い時間が経過して、……今の私には、母の気持ちもわかるようになった。どのような理由があれ、母は理不尽に殴られたのだ。そして、母にとってはそのことこそが重要だったのだ。母にとっては、父が乱暴になり自分に酷い暴力を振るい続けたという純然たる事実が全てだった。父の内面で何が起こったかなどということを、母は知ることができなかっただろうし……もしかしたら、母にとっては父の内面などというものはどうでも良いものだったのかもしれない。『自分に降りかかった事実』こそが全てだった。『暴力を振るった父』ということが全てだった。そして、母は私がどれだけ説明しても、最期まで父を怨むことをやめなかった。
まあ、それもそうだ。もし交通事故に巻き込まれたのならば、どうしても回避することのできなかった事故だったと説明を受けたとしても、自分を轢いた運転手を許す気にはなかなかならないだろう。母にとって、父の晩年はそういうものだったのだろう。ましてや父は母に詫びることなく死んでしまったのだから。
しかし、だからこそ……だからこそ、私は母に父を許して貰いたかったのだと思う。暗闇のなか、私は自分の手を差し出す。
父は、崩壊する自我にのたうち回りながら、正気を失っていった。それはどのようなものだろうか? 私には想像がつかない。──『かつての父』は、たぶん緩慢に死んでいったのだろう。
確かに父は晩節を汚すようなことをした。母にとってはそれが重要だったのだろう。しかし、それでは──『かつての父』と過ごした、父と母の時間の大部分を占める幸せな生活は何だったのだろうか? 確かに、父の側にいて暴力を振るわれていた時はしかたないと思う。生き延びるためには父の暴力をどうにかしなくてはならなかったから。
しかし、母が父から逃れて平穏を取り戻してからも、母は父の暴力に囚われていた。1つの不幸が全ての幸福を否定してしまったのだ。『かつての父』は否定されたのだ。──そういう意味では、幸せだったころの『かつての母』も、父に殺されてしまったのかもしれない。
──話が堂々巡りになる。手を下ろし、私は少し冷めた甘いコーヒーを口に含む。
結局のところ、私は母に父を許して貰いたかったのだと思う。
人は病にかかるもの。人は誤ちを犯すもの。病や誤ちは、当人だけではなく回りの人にも大きな影響を与える。確かに、そういう意味では当事者であるうちは憎んでも怒っても良いと思う。
しかし、全てが終わったあとにまで、そのことに囚われ続けるとしたら……ひとつの不幸に囚われて他の全てを否定してしまうとしたら……とても寂しいことではないか。
たったひとつの不幸が全てを否定してしまうのが世の理だとすると、この世界は怨みで満ちていることになる。それでは……とても悲しいことではないか。
私は立ち上がる。
……確かに世界は怨みで満ちているかもしれない。私は思う。しかし、……しかし、私はこの怨みに満ちた世界を変えることができるかもしれない。
私の中のもう一人の私が囁く。
その世界まであと少し。俺とともに行こう。お前にはその力がある。世界を創り変える力が。俺は、世の理を変える可能性を、お前に与えた。俺は、人と共に生きる可能性を得るために、お前の才能に賭けることにした。俺とお前の渇望した世界。それが……目の前にある。
「しかし、今のままでは望みの叶うことはないのです」
その声に慌てて振りかえる。暗闇に溶け込む漆黒の流れる髪。
「──どうしたんだい? 梨花ちゃん、こんな夜中に」
しかし、その立ち振る舞いに違和感を感じる。普段の梨花ちゃんの可愛らしさのは変わりなかったが──その裏に隠れた暗い深淵が顔を覗かせているような、そんな感じがする。
私は突然気が付いた。私が長いあいだ心の奥底に潜ませた野望。それを今、梨花ちゃんは口にしたのではないのか? 戦慄が沸きあがる。
「今のままでは入江──いえ、雛見沢自体が闇に葬られてしまうのです。…………あなたの願いは、今まで叶ったことは無いわ。可哀想なことね」
くすくすくす。梨花ちゃんの冷たい忍び笑いが、沈黙のなかに染み込んでいく。
私は凍り付く手を無理に動かし、コーヒーを口に運ぶ。
ざわめく心を無理矢理落ち着かせると、絞り出すようにして問いを投げ掛ける。
「──本当に……梨花ちゃんかい?」
「はい、梨花なのです。入江は怖がりなのですよ。にぱ~☆」
確かに梨花ちゃんではあったが、そこにいるのはいつもの梨花ちゃんではなかった。何が起きているか状況が理解できない。なぜ状況が理解できないかも、はっきりと掴めていなかった。今の状況に恐怖を感じながらも、理解できないということに激しい不快感を覚えていた。
今度は堰を切って梨花ちゃんを問い質そうとする自分の心をなだめつつ、今の状況を整理して質問内容を組み立てていく。徐々に、自分が冷徹な科学者になっていくのがわかる。
しかし、私が質問を発する前に、梨花ちゃんが独り言のように呟く。
「今の入江の周りはバラバラだわ。『東京』は廃止を強要し、鷹羽は存続のためにあらゆる手を尽し、貴方は雛見沢症候群を用いた革新──いえ、人類に対する革命かしら?──を目論み……誰一人として同じ方向を向いていないわ。そのせいで、雛見沢は破滅へと向かっているのよ」
とても冷たい言葉。心当りがある分、私の心に深く突き刺さる。私は3年の猶予を得ることが出来て満足していた。しかし、状況は何一つ変わっていはいない。『東京』が強行手段を取ったり、鷹野さんが暴走すれば、今の状況は簡単に破綻するだろう。多分、梨花ちゃんの言っているのはそのことだ。
私は、会話の主導権を奪い取るために、まずはありきたりな問いを投げ掛ける。
「わかったよ、梨花ちゃん。まずは梨花ちゃんの知っていることを教えてくれないか?」
まだまだ夜は長い。子供は眠る時間だが、この梨花ちゃんとなら大丈夫だろう。私は自動販売機でアイスココアを買うと、梨花ちゃんに手渡した。